運動は”高負荷”・”低負荷”どっちがいい?
理学療法士2人が、
ある疾患Dに対する「高負荷トレーニング」について議論しています。
「高負荷にすることで、通常の運動療法より歩行能力が明らかに改善しています。
高負荷トレーニングは、もっと積極的に使われるべきです。」

もう一人は反論します。
「通常と大きな差はありません。
むしろ高負荷にすることで、リスクが増えると考えます。
高負荷は避けるべきです。」

議論は平行線のままです。
この会話に抜けているポイントは何でしょうか
その議論、そもそも同じ「高負荷」を指していないかもしれません
疫学視点で考える
ここで一度、立ち止まる必要があります。
2人が使っている「高負荷」は、本当に同じでしょうか?
たとえば、
強度はどうでしょうか?
頻度も問題です。
同じ言葉でも、中身が違えば、別モノです。
曝露が定義されていない状態では、
効果があったのか、
そもそも別のことをしていたのかを区別できません。
そのため、
高負荷が良いか悪いかを議論する前に、
「何を高負荷と呼んでいるのか」を
言葉で揃える必要があります。
今日の新キーワード 曝露(ばくろ)
曝露(ばくろ)とは、
「結果として起きる変化よりも前に与えられる、介入や条件」を指します。
疫学では、あとから観察される健康に対する変化に影響したかどうかを考えます。
薬も、環境汚染物質も、ウイルスも、手術も、生活環境も、広い意味で、いずれも曝露として考えることができます。
疫学は、曝露が健康状態にどのような影響を与えるかを、
観察と比較によって明らかにすることに強みを持つ学問です。

なお、意図的に行った投薬や手術は、あえて介入と呼ぶことがありますが、このページでは用語をシンプルにするため、意図的な介入も含めて「曝露」と呼びます。
そもそも曝露がどのようなものか定まらなければ、
その影響を語ることはできません。
臨床で言えば、
「何をしたのか」が曖昧なまま、
「良くなった」「変わらなかった」と話している状態です。
それでは、改善が介入によるものなのか、
経過によるものなのかを切り分けられません。
曝露は、強度、頻度、時間、期間で定義できます。
どれかが曖昧なままでは、評価は成立しません。
たとえば薬や手術も、同じです。
薬も適切に使えば身体を改善させますが、
用量や使い方を誤れば毒になります。
手術も、体を意図的に傷つける行為です。
しかし、その侵襲が回復につながる場合もあります。
同じ介入でも、使い方が違えば、全く別の曝露になりうることを理解していただけたでしょうか?
運動療法も例外ではありません。
強度や頻度、期間を定義せずに語れば、
介入による変化が、望ましい反応なのか負担なのかを区別できません。
補足:リハビリの臨床でよくある曝露未定義の例
このような点は、学会に参加すると、かなり頻繁に起きているように感じます。
高強度運動療法は、むしろ分かりやすい例です。
簡単にいくつか例を挙げてみます。
たとえば、通常の理学療法に「自主トレを追加した」という報告。
回数なのか、時間なのか、強度なのかが不明です。
毎日5分のストレッチと、40分の筋トレは別の曝露です。
「歩行練習を増やしました」も同じです。
病棟内を1往復なのか、屋外歩行なのかで意味が変わります。
補助の有無や速度が違えば、その練習は別物です。
「痛みが出ない範囲で行いました」という表現。
痛みゼロなのか、VAS3まで許容なのかが共有されていません。
曝露条件が人の感覚に丸投げされています。
「早期離床を行いました」も典型例です。
術後何時間後(もしくは2日以内)か、端座位か立位かでも全く違います。
同じ言葉でも、生体反応は一致しません。
「十分な介入量を確保しました」も危険です。
何分、何回、何週間かが抜け落ちています。
量を言語化できない介入は、評価できません。
これらに共通するのは、
「何をしたか」ではなく
「やった気がする言葉」で議論している点です。
まとめ
・同じ言葉でも、曝露が違えば別の介入です。
・効果の議論する前には、曝露を言葉で定義してください。
・議論が噛み合わないときは、頭で思っている定義が相手と同じかを疑いましょう。

